「他者に語る」ということ

 

  カウンセリングにはいろいろな理論や技法があり、セラピストによってやり方はさまざまです。しかし、どのカウンセリングでも共通していることがあります。それは、カウンセリングに来る方(クライエント)とセラピストの2人以上で行われるということです。

 

 これは当たり前のことではありますが、よく考えると不思議でもあります。「自分で出来る○○療法」といった本も多く出版されており、それらが役に立ったという方もたくさんいます。しかし、1人で本を読んで行うのではなく、セラピストと一緒にそれらの治療を行うことを希望するクライエントさんは後を絶ちません。そこには本を読んで1人で実践してみるだけでは足りない何かを求める気持ちがあるのでしょうし、その足りない何かというのは自分ではない他者の存在なのではないかと思います。

 

 しかし、いざ自分のことについて他者に語るとなるといろいろな気持ちが沸くものです。

 

 どう思われるかといった緊張や不安がある一方で、理解してほしいという期待もあるでしょう。相手は信用に足るのかという疑いや十分に伝えきれなかった不全感が生じることもあれば、話すことや聞いてもらうことの安心感や心地よさを感じる時もあるかもしれません。話そうと思っていなかったことを語ってしまうこと、逆に、言おうと思っていたのに話せなかったということもあるでしょう。また、いつもの自分と違う振る舞いをしてしまうこともあれば、意図せずいつもの言動パターンをくり返していることもあると思います。

 

 このように、他者に自分のことを語るという行為には、私たちが意識するにせよ気づかないにせよ、さまざまな情緒が付随します。他者に向けて自分のことを語るということは、実はとても負担が大きく、非常に不自由なことであるのでしょう。それにもかかわらず、カウンセリングの形式が変わらず多くの場合「他者に語る」という形をとるのは、人が自分自身について知るには他者の存在が必要であるということの表れなのかもしれません。

 

 自分が感じたことや考えたことを他者の前で言葉にし、自分ではない他者からの問いかけによって何かを感じ、考え、またそれを言葉にして伝える。そういったやりとりを通してこそ、知ることが出来るものごとというのが確かにあります。意を決してカウンセリングの門を叩く人は皆、この他者の必要性というものに潜在的に気づいているのではないでしょうか。そしてカウンセリングというものは、「他者に語る」ということを安全に行うことができる場であり、かつ、その困難さと大切さが尊重される場なのではないかと思います。

 

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2020年01月27日|ブログのカテゴリー:カウンセリング